道場正面にかかる「回炎剣」の扁額は、小野派一刀流 第十七代宗家 笹森 建美氏(=駒場エデン教会牧師)によって揮毫
され、同流 新宗家禮楽堂竣工の記念品として配られた手ぬぐいを表具したものである。これは旧約聖書 創世記 3章24節「こう
して、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」
から取られている。つまり回炎剣とは「永遠の命の木へと至る道」を人から遮断、隔絶し、近づけさせないための剣である。
剣によって戦う技術の工夫は、早くも平安時代に始まると言われる。それは我命を敵から守り、保ちつづけるための技法とし
て発達してきた。つまり、我命を永遠に保ちたいという自己保存の本能に基づく行動である。
しかし剣術の技術が発達してゆく中で、敵から常勝をあげ続けるには、単なる技量的な側面だけでは足らないことに、多くの
人々が気づき始める。江戸時代に入り、平和な時代が訪れると、技量に加えて心的な側面が深く探求され、剣道へと昇華する努
力がなされた。結果、一流といわれる諸流派ではそれぞれの極意を持つに至った。
技量的な側面の限界を一つ例示する。宮本武蔵は「巌の身」を説き、敵を圧倒して倒すため、自己の肉体を鍛え上げた。実戦
においては、様々な心理的・物理的策略をもめぐらして戦ったことは周知の事である。結果生涯において六十数度真剣勝負をな
し、一度も負けることはなかったといわれる。しかしその希代の剣豪も、ついに三十四歳頃
註1
を境に、実戦を退いている。つまり、今風に言えば現役引退を迎えたのである。いわゆる殺人剣(せつにんとう)
註2
の限界である。
その肉体の衰えを補うものは何か。 それは技量に加えての、心法に他ならない。 柳生新陰流ではこれを「活人剣・転(ま
ろばし)」
註3
と言い、小野派一刀流ではその極意を「円満」
註4
と説く。さらにその円満をもたらす根源は「憐れみの心」であり、それは我が心を相手の心に同化させることであるとする。つ
まり「喜ぶものと共に喜び、悲しむものと共に悲しむ」ことのできる心を持つに至る修行を説く。
註5
外見上我々は、剣道を通して、相手を切り、わが身を守る修練を繰り返している。「竹刀は刀であるという観念を持て」と終
始指導される。そう思えば思うほど、その刀法を修行する道場は、「死」というものを身近に感じ、深く考え、その恐怖を克服
しようと鍛錬する場となる。ところが修行がある程度まで来ると、いわゆる武蔵の「巌の身」を追求しても、そこには限界があ
ることに気づく。結局「活人剣」「円満」の境地に至らないと、いつまでたっても「対立・抗争の剣道」に終始してしまうこと
に気づくのである。逆説的ではあるが、剣道は究極的に「対峙者との調和」であり、それを具現させるものは「憐れみの心」な
のである。我々はこの境地を会得すべく修練を積み上げるべきである。目標を誤った鍛錬は邪剣を産み、狂気となる。
しかし、たとえその錬度の高い、崇高な心的境地を持つに至り、他人との闘争を円満の内に克服し得たとしても、さらなる敵、
つまりすべての人間に、平等に、そして必ず訪れる最終的な敵といえる「いずれ来たるべき己の死」は 免(まぬかれ)得ない。
我々はこの最終的な敵にどう対峙し、どう克服すればよいのか?我々を永遠の命から遠ざけ、それに至る道から隔絶する回炎剣
を打ち破るにはどうすればよいのか・・・残念ながらその答えは剣の修行だけからは得られない。それどころか剣はその限界を
示すばかりである。
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それでは剣道の修行、ひいては武士道の追求はまったく無意味ということになってしまうのであろうか?
註6
そうではない。聖書の語りかける「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイによる福音書5
章7節)「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(同5章44節)はまさ
に剣道の極意をもう半歩押し進めて昇華させ、イエス・キリストの十字架を通して精錬したものと言える。剣道極意の境地に至
れば、聖書の福音はごく身近なものとなり、受け入れるに容易い。十六代宗家 笹森 順造氏著の「一刀流極意」には「一度心に
勝って生きると、死の禍(わざわい)から遠いこと甚だしく、一度心に敗れて死すると、生の利から遠いこと無量である。一刀
流の執行の要諦はこの生死の分かれ目を出入り馳駆しながら、生死の遠近を取り極めて日常心根体技に励み鍛えることである。
我欲の重荷を背負う罪人には極楽は百万億土の遠い所にあり、すべてを払捨し捧げて身軽な聖徒には天国がすぐ近くにある。業
欲執念、怯懦退嬰(きょうだたいえい)(気が弱く、臆病で、進んで新しいものを取り入れようとしない者)には眼前の目的も
遠く去って成ることはないが、無欲恬淡(むよくていたん)(欲がなく、ものに執着しない)、進取勇敢の者には、遠くにある
目的からわれに近づいて来て、立ち所に成るものである。すべて義と愛に立って求めるものは与えられ、尋ねる者は逢い、門を
叩く者は啓(ひら)かれ、励むものはこれを取る」と説かれている。
聖書は、「(キリストは)最後の敵である死も滅ぼされます。」「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死
を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私た
ちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(コリント人への第1の手紙 15章26節/54〜56節)
と断言し、キリストの十字架を通して、永遠の命の木へと至る道を守る回炎剣を打ち破れると説くのである。
清教学園は福音伝道を使命とする学園である。その中にある道場もその使命を免れ得ない。道場正面に「回炎剣」の扁額を掲
げる。この道場に集う者は、神の福音に親しみ、永遠の命に至る道を探り、福音を受け入れる素地を固めるべく修行に励み、回
炎剣を打ち破る錬達を目指す。
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